葦の間に光る水見ゆをさなくてかなしきときも川へくだりき

麻生由美『水神』(2016年・砂子屋書房)

 

作者は、かなしいことがあって川へやってきた。川は何でも黙って受け入れてくれそうな場所だ。そう言えば子どもの時も同じように川やってきたなあと、思いにふける。深い「さびしさ」「かなしさ」を覚えることは、子どもでも大人でもある。水辺に繁る葦の間の光に、かなしみがほどけてゆく。光は水の表情だ。気持ちが滞った時に足を運ぶ場所があるということは、故郷と同じでとても大事なことだ。

 

この歌は、歌集の「水神」という一連のなかにあり、すぐ前の<わたくしがゐなくなつても水神の樹はあると思ひき世界のやうに>を受け、次の<水神の樹の在りしより水ぎはへくだる径ありいまだ残れり>へ続く。水神をまつる神木が伐られ、「わたくし」の拠り所がなくなってしまった「かなしみ」を歌っている。連作として読むと、「葦の間に光る水」は美しさや懐かしさだけではなく、背後に喪失感をともなうことがわかる。

 

現代に生きるわたしたちは、過去の記憶とテクノロジーの便利さにどう折り合いをつけるのか。世界的状況においても、個々の日常においても困難な問題になっている。『水神』の中心は四国巡礼。歴史と自己にじっくり向き合い、事象はつねに重層的で複雑、という大きな主題から目を背けない。見るべきものを見るという姿勢がある。

 

暗がりにふと田の水のにほひくるわたしはそれをにつぽんと思ふ

首を打つ技能持ちたる人ありきすゑなる人が原付でゆく

需めある人々に成るこれの世へ木の葉の間よりそつと手を出す

 

このような歌もある。