今井恵子


はまぐりの汁澄みとおる雛の夜に俄かに母の老いふかみゆく

佐伯裕子『流れ』(2013年・短歌研究社)

 

雛祭りの日は蛤のすまし汁で祝う。こういう食材に、雛祭りと「浜下り」の行事の結びつきを見るのは穿ちすぎるだろうか。沖縄や奄美に見られる旧暦3月3日の女性の行事「浜下り」は、深く広い海を思い出させる。海は生命の源である。「灯をつけましょ雪洞に」という童謡の歌詞には、明るく華やかな春の到来が歌われるが、掲出の一首は、古来より伝わる生命を包み込む、産む性としての女性が歌われている。

 

「母の老い」が深まってゆくと感じられるのは、3月3日がすこやかな女性の成長を祝う日であるからだ。対照的に歌われる「母の老い」は、一般的「老い」なのではなく、闇をも包み込む奥深い「女性の老い」である。すまし汁の形容だが、あたかも「老い」のことのようで、「澄みとおる」の一語が冴える。

 

佐伯裕子は、知識人的風格のあった近藤芳美に師事した。言葉の斡旋の感覚的な冴えに特色がある。『流れ』では、次のような歌があり、戦後の時間をたっぷりと含んで厚みを加えている。

 

切りかけのキャベツを置きて彷徨に出でたる春の忘れがたしも

練兵場戸山が原の下ふかく昨日を乗せて地下鉄がゆく

246青山通りに着くまでにわれの戦後は見えなくなりぬ