被災せし人は誰も見ず 鳥瞰的津波映像を見るはわれらのみにて

花山多佳子『晴れ・風あり』(2016年・短歌研究社)

 

東日本大震災から6年が過ぎた。当日、まだ地震の揺れがおさまりきらないうちに、テレビに流れた中継映像は衝撃的だった。津波が次々に街や家や田畑を呑み込んでいった。それは映画やCGで見知ったものと似ているようでありながら、まったく違っていた。恐怖というよりは、あまりにリアルすぎて、かえって絵空事のようで、わたしたちは、黙って画像の前に立ち尽くした。

 

震災体験は、その後たくさん短歌になった。短歌が記録にもっとも相応しいかどうか、よく解からないが、できるだけ多く言語化する努力が大事という思いは、今にかわらない。その中から、時間の風化に耐える歌は、おのずから残ってゆくだろう。掲出の歌は、そういう歌の一つだと思う。

 

掲出歌は、東日本大震災にかかわる経験をとおして「見る立場」にいる自身を認識する。映像を見ている人はそれだけで安全の中にいるのだと認識するのである。それは、人々に、立ち位置への自己認識をするどく問いなおさせ、同時に震災詠という枠を超え、さまざまな場面を連想させる。

 

生垣に夕光ゆふびかりさしひよどりの首のあたりのざらつきが見ゆ

ことごとく生きてゐる人、生きてゐる人だけがどつと電車を降りくる