光森裕樹


聡きことわづかに憎し主もたぬ犬さへひとを嗅ぎわけて寄る

今野寿美『星刈り』(砂子屋書房:1983年)


(☜3月10日(金)「憎むということ (3)」より続く)

 

◆ 憎むということ (4)

 

野良犬が鼻をくんくんとさせながら人を嗅いで回る。この人なら何か食べ物をくれるだろうか、あるいは、飼い主になってくれるだろうか。犬はそんなことを考えているのかもしれない。そう思うと、その賢さががなんだか少しばかり憎々しい――
 

一首は野良犬の様子に焦点を当ててはいるが、「犬さへ」という表現に立ち止まりたい。「犬さえひとを嗅ぎわけ」て擦り寄るのであれば、人間ならなおさら、ということが言外に語られている。そのような人物が身近にいたのか、あるいは自身の中にもそのような心性を見たのか。どちらとも解釈できるが、私は後者で解釈した。そのほうが、犬に向けられた憎さのベクトルがそのまま自分に跳ね返ってくるようで面白いように思う。
 

もうひとつ理由がある。どうやら野良犬とは縁があるようで、第一歌集の『花絆』でも今野寿美は犬に追われている。
 

はけ口のあらぬ思ひに来しわれをとぼとぼ追うて三丁目の犬  『花絆』

 

行きどころのない気持ちを抱えた自身と、どこにでも行けるようで結局は「三丁目」から出ていくことはない犬は、どこかで通うところがあるのかもしれない。この、他者(他犬)に自身を見る、という歌い方を掲出歌にも重ねて、「自分自身にも人をそれとなく嗅ぎ定めるところがあるかもしれない…」という読みを採った。
 

『星刈り』には、次の歌が収められている。
 

わが犬はときをり死にたるふりせしに老いづきてふとゐなくなりけり

 

こちらは家で飼っている犬のことだろう。遊びの中でふざけてか、都合の悪いことがあるときにか、とにかく死んだふりを良くしてた犬が、あるときどこかに行ってしまった。死期を悟ったのだろう。あれだけ、死んだふりをしていたのに、〈本当の死〉は飼い主に見せようとしない。あるいは、いなくなってその死を確認するすべがないという意味では、最大の「死んだふり」を演じたのかもしれない。本能から来る矜持とも、飼い主への想いともとれる歌である。
 

野良犬は寄って来て、飼い犬は去っていく。同じ歌集に収められたこの二首は、どこかで繋がっているように思えるのである。
 
 

(☞次回、3月15日(水)「憎むということ (5)」へと続く)