靴音となり人のゆく地下道の靴音の群へわれも降りゆく

山本かね子『風響り』(1972年・新星書房)

 

通勤の帰りだろうか、日々の暮らしの中を通過して行く見知らぬ人々がいる。顔見知りではないけれども「靴音の群」に、作者は緩やかな親しみを覚えているようだ。人がそれぞれ、顔をもつ個人から輪郭となって、街の雑踏にまぎれてゆくときの感じ。ドラマがあるのではないが、地下道にひびく道行く人の靴音を聞いている。作者の感受が、そこに人の暮らしを思わせる。「人が靴音を響かせる」のではなくて、「人が靴音になってゆく」という着想が魅力的。

 

群を離れ「われ」の主体性を際立てるというのが、近代日本が推進しようとした一つの方向だとすると、山本かね子は、すこし違う方向を向いている。「群へわれも降りゆく」にそれが読みとれる。気を張って顕示し続ける自己ではなく、群の人とともにあろうとする。結句「われも」の「も」が、地下道の雑踏の見知らぬ人同士ながら繋がりを感じさせる。1970年代という時代の気分でもある。

 

誰が願ひ聴きたる耳か秋の陽に色あたたかし野の仏たち

にびいろの音に土鈴鳴りまどろむとしてはいくたび呼び戻さるる

砂時計の砂つぶやくを聴きとめし耳に冷たきてのひらを当つ

 

出征した兵士たちが婚姻相手世代だった山本は、生涯独身を通した。『風響り』には、生まなかった子の歌が繰り返し歌われる、生むはずだった「子」への思いが、声や音に耳を傾けさせたのだろうか。大正15年生まれ、わたしの母世代である。