老いさびし犬の散歩に小太りの猫の薄目や 法案通る

小高賢『秋の茱萸坂』(2014年・砂子屋書房)

 

小高賢がいなくなって3年が経つ。ずいぶん前のことにも思えるが、短歌の会合のどこかでいまだ論戦をはっているような気がしてならない。編集者らしい広い視野と、下町育ちの歯切れよく真直ぐな弁舌と、その世代が共有する思想は、今更ながらに得難いものだった。

 

晩年の小高は、時代の現実と本気で闘おうとしていたと思う。日本の近代の蓄積を知っているゆえに見える時代の動きに向き合っていた。今日の息苦しい表現の昏迷が、切実なものとして身近に、とてもよく見えていたのだと思われる。

 

「歌よみが幇間のごとく成る場合」ときにかえればかるく噛みしむ

 

「歌よみが幇間のごとく成る場合」は、土屋文明の歌。近藤芳美がそれを継いだ。小高は、そのような精神の継承を折に触れて反芻する。今ではあまり口にすることもなくなった表現の良心というものだ。掲出歌に登場する犬や猫は、精神の緊張を失った日本人の姿だろう。やすやすと通ったであろう法案が、何とも不気味である。

 

貧からの脱出という戦後論「貫く棒のごときもの」なり

沖縄に原発なきはアメリカの基地のあるゆえ……みな知っている