手をたれて(いま手をたれて病むひとの手の数に慄然と)われあり

渡辺松男『きなげつの魚』(2014年・KADOKAWA)

 

渡辺松男の歌は、地上に居ながら、いつも頭のなかに宇宙の広がりを宿しているようだ。広がりは、たましいのような輪郭のない「われ」の、深い「かなしみ」にみちている。身辺の事象を歌いつつ、「かなしみ」は世俗的なそれでなく、形而上的で、読んでいると、生の不思議な感覚が身の内に呼び起される。

 

「手をたれて」と「われあり」のあいだに「いま手をたれて病むひとの手の数に慄然と」という挿入句が差しこまれる。括弧で挿入句を示し、「手をたれて」を繰り返し、短歌定型の力を高度につかいこなして爽快だ。「手をたれる」は、落胆、失望、傷心、脱力、消沈という心象の現れだろう。その行為が、同時代の同じ時間を生きる「病む人の手の数」を想起させる。この世は驚くべき数の落胆や失望にみちているのである。「我思う、ゆえに我あり」を下敷きにした存在への懐疑がある。

 

とんばうはその身線分たることの悲を知りしのち空にするどし

幾山河花の承けたる足のうら靴下はかず焼かれたりけり

コップ一杯みづをのむときさみしさは青い地球をひとまはりする

 

巧みでありつつ、言葉が、生きる「かなしみ」の普遍に触れている。