光森裕樹


予定日は桜桃忌にて霧深しわが子の晩年をなつかしむ

大口玲子『トリサンナイタ』(角川学芸出版:2012年)


(☜6月16(金)「生きると死ぬ (6)」より続く)

 

◆ 生きると死ぬ (7)

 

出産予定日がちょうど「桜桃忌」であったのだろう。その日を無事に迎えられるかは誰にも分からないということと、入水自殺した太宰治の忌日である不穏さが「霧深し」という表現を呼ぶ。
 

その霧の中に迷い込むなかで時間の流れに異変が起こったかのごとく、まだ生まれぬ子どもの、おそらくは親である自らには見ることは難しい晩年が懐かしく想起される。
 

子どもがやがて迎える生と、太宰がすでに迎えた死。子どもがいつか送る晩年と、太宰にはなかった晩年。それらが渾然一体となりながら一首の中にまとまっており、生死を超越したような慈愛に満ちている。
 

文人忌が短歌にでてくること自体は珍しくはないのかもしれない。「桜桃忌」という言葉を含む歌が他にもあった。
 

片隅に〈桜桃忌〉とぞ記したれば上司のコメントあり業務日誌に  大井学『サンクチュアリ』
ぼろ切れのごとくに濡れし夕刊を拾い上げたり 桜桃忌過ぐ  上野久雄『喫水線』

 

大井学の歌では、ビジネスという場において直接的には関係のない文学が、人と人との見えない繋がりとして表れている。上野久雄の歌では、桜桃忌が実際には太宰が死んだ日ではなく、入水した太宰の遺体があがった日であることを踏まえて読めば、拾い上げる濡れた夕刊の即物性が際立つ。
 

太宰の持つ退廃的な作風と甘美な桜桃とは、これ以上の組み合わせはないように思え、そこに歌人は惹き寄せられるのだろうか。
 

――6月19日。
太宰治の忌日はまた、太宰治の誕生日でもある。
 
 

(☞次回、6月21(水)「生きると死ぬ (8)」へと続く)