大松達知『ぶどうのことば』(2017年・短歌研究社)
むかしは、特別な事情がなければ、食卓に並ぶ食事を写真に撮ることはなかった。レストランのメニューに載せる写真とか、誕生日会の記念写真とか、子どものお食い初め料理をアルバムに残すとか。ここは、チャーハンだから、本日の昼食といったところか。フェイスブックにアップするのだろうか、カジュアルで当たり前の一齣である。誰でもがメモの代わりにシャッターを切る時代になった。従来であれば消えて忘れられていった時間が映像に残る時代である。
掲出の歌は、「過去にしてから」に強いインパクトがある。言語でも写真でも、撮った(書き留めた)瞬間、行為者から見れば、それはもはや現在ではなくなる。記録者の立場に立てば記録はすべて過去である、ということは、現在は表現できないということである。そういう時間と表現の関係を、端的にあらわすのが「過去にしてから」だ。
子をまねて指しやぶりしてみるまひるこころあるべきところに戻る
ラーメンの列の半ばをつなぎをりこのあと架かる虹を待つごと
無作法を新しいねと言ひかへて高校生に迎合すこし
家庭では娘が生まれ、職場の高校では英語を教えて勤続20年の作者である。素材は、そうした生活周辺からのものが多くカジュアルにみえる歌だが、じつは思索的である。モノやコトを歌うのではなく、モノとモノの、コトとコトの、また、コトとモノの関係を、広い視野から発見してシャッターをきる。したがって自己は相対化されている。それが、現代的であり、つぎつぎに変化する今を感じさせる。