やがて海へ出る夏の川あかるくてわれは映されながら沿いゆく

寺山修司『空には本』(1958年・的場書房)

 

『空には本』では【海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり】【一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき】などがよく引用され、人口に膾炙している。舞台、映画などの演劇に関わった作者らしく、麦藁帽や向日葵の道具だて、配置がうまく整えられ、読んでいると目の前に無理なくイメージが膨らんでゆき一つの物語を喚起する。ちょっとポーズを感じさせる演出もなかなかのものだと思う。

 

このような歌に対して、引用歌のような目立たない歌もある。特別な仕掛けがないのでつい読み過ごしてしまいそうだが、青春期の自意識がはたらいて、鋭く繊細な感受性を見る思いがする。川面に映る自分の影を見ながら川沿いを歩いて行く。「海へ出る」からすると、川下に向かって歩いているのだろう。やがて開けてくる景色の先に、広く明るい可能性を感じさせる。

 

冬怒涛汲まれてしずかなる水におのが胸もとうつされてゆく

母が弾くピアノの鍵をぬすみきて沼にうつされいしわれなりき

 

「うつる」「うつす」でなく、「うつされる」であることに注目したい。鏡を見るように、外景の中に置かれた自分の姿を見ることによって「自分」が認識される。「うつされる」自分は受け身であり虚像である。自分そのものではないのである。世界と自分との関わりについて、作者の認識が見える。