みづからを日日解き放てよ大空へおのれほどけてみなぎらふまで

阿木津英『巌(いはほ)のちから』(2007年)

 

この歌をふくむ一連には、「らい予防法」違憲国家賠償請求事件判決に対し、国は控訴を断念した、と詞書がある。その当初の意思を尊重しつつ、だがここで、わたしはより広い人間一般の歌として、作品を味わってみたい気がする。

 

「みづから」、「おのれ」、私。

人はどうしてこんなものを抱えて生きているのだろう。まったく、なべての厄介のもとである。こんなもの、空に向かって解き放ってしまえたら、どんなに楽でのびのびすることか。

だが、結句が「みなぎらふまで」であることに目がとまる。ただほどけたいだけではない。ほどけて、みちあふれるまで、というのだ。ここには力が感じられる。、力もつものとして大空に遍在しようとしている。

二句目が八音になっているのも見逃せないところだろう。放て、でもいいところを、わざわざ放てよ、としてある。放つ、ということは、ちょっと思うより重いことであることが意識されているようだ。

 

妙な言い方かもしれないが、「私」にこだわりきったものしか、そこをぬけてより広い真理に出ることができないのであろう、という気がしている。長い間うたうなかで、「私」を問い、晩年にいたった人の作品を見ていてよくそう思う。

 

 らい患者の人たちのことに戻ってみても、彼らは、自分の置かれた理不尽な状況から自分というものを考えつめることによって、他の人の思い及ばない、ひろやかなどこかへ突きぬけていたはずだと思うのだ。

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