蜂の屍のかろく乾ける浄らにて落花のほども媚びることなし

齋藤史『秋天瑠璃』(1993)

 

 齋藤史は1909年生まれ。これは1991年の作品。

 老いてなおきっぱりとシャープな物言いに惚れる。

 

 花は落ちるときに媚びるという。その見方に驚く。

 花を見るとき、多くの人が全面肯定的な見方に傾くだろう。花はひたすら無垢であり純粋であり、懸命であり、美しさのまったき象徴である、といった見方。

 それゆえ、花は可憐に散り、散りざま美しく、無誤謬であり、完成された生命体であるというような感覚さえあろう。

 

 しかし、作者はその様子を媚びていると言う。一刀両断である。

 そう言われてみれば、散ってさえも色や香りを残す花という物体は、人間や生存した環境に媚びていると言えなくもない。

 それと対比して登場しているのが、蜂である。死ねばすぐさま乾き軽くなり全身を晒してころがりまわる蜂。それこそが「浄ら」であって、しんなりと色褪せてゆく花は浄くないと言うのだ。強い歌である。

 (そこには、われわれ人間はどうなんだというと問いかけも隠されていよう。)

 花を悪者として見るのは慣れていないから、多少の違和感もあるかもしれない。

 だが、これだけ言って露悪的にならないのは、作者の言葉づかいの気品のようなものだろう。

 歌集の少し前には、

・花はときに人を憎むかすくなくも人を嫌ふと思へてならず

がある。

 ときに常識を敵に回して打ちのめしてみる。逆境を生きて超えた強さが生み出した歌であるのだ。

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