三枝昻之『塔と季節の物語』(1986年)
青雲の、とくれば普通、青雲の志。
志を恋にすりかえたところに、華やかさと苦みが匂う。
オレの恋は、まさにそれほどの晴々しさと成果だったと誇るように(あるいは、そう納得しようとするのかもしれないが)、その成就の結果得た子をたかだかと掲げて歩む。
だが、この「青雲の恋」のもの言いには、青雲の志というべきものを、なお完全に過去のものとしきってしまえない自分が隠されているのだろう。今や子を得て、その子を肩に乗せている、自分の生きよう。その現実のなかで、少しずつ風化したかもしれない志、かつて自分がめざしたものを思う苦さは、男児を掲げその重みを肩に感じることで、明るく思い直されようとしつつ、なお何ものかがあとをひくようだ。そうでありつつ、「男児の一軀」というきっぱりとした終わり方には、前向きの感じがある。
それにしても、こういう心情も、もう過去のもののような気がする。今の父親たちは、どういう類いの苦さをかみしめているのだろう。それとも苦さなんてないのだろうか。