石川美南『砂の降る教室』(2003年)
菜の花のいっぱい咲いているところ、そこに立って景色をことばに置きかえようとする。
いちめんのなのはな
他には
いっぱいのなのはな
何か違うな、地続きにずうっとひろがっている感じが乏しい。
群れ咲くなのはな
暑苦しい。
胸の底にすとんと落ちて納得できる言い方が、誰もがこの景を前にして使う言葉であることが、悔しい。なんとか〈わたし〉だけの、〈わたし〉の今にぴったりの表現はないものか。
そう思って菜の花のなかにいる〈わたし〉を、花はただ黄色に照らす。
この気持ちはよくわかる。
でも、これはある意味、短歌におけるオリジナル信仰の行き着いた果て、ひとつの病かもしれない。近代の歌人なら、たとえばこういう時、何のためらいもなく”普通”の言葉を使って、でもわたしたちが失いつつあるかもしれないおおらかな歌を放ったことだろう。
わたしたちの短歌はいまどんなところにいるのだろう。