三井修『砂の詩学』(1992年)
「戦う国」という章に収められた、イランで詠まれた一首。
屈葬、手や足を折り曲げる埋葬。
その形でイスラム教の人たちが礼拝をするという。
なにか非常に過酷な印象を与える。
「屈葬」の一語がこの歌のキーだろう。自然環境のいたって厳しい地における一神教の礼拝の様子に、形の類似から思い浮かべられた言葉であっても、それが死の儀式であったことにひっかかる。
戦時下であるがゆえに死が近く、だからこのように感じたともいえるのだが、わたしはこの一首を読んだ時、もう少し宗教や信仰というものの本質的な何かに触れた感じを覚えた。
信仰というものは、真の豊かなありようを求めて、しかし突きつめてゆくとき、それゆえに人間の自然なあり方から離れてゆかざるを得ないところがあると思う。
一神教の信仰の在り方は普通の日本人にとってそう簡単に理解の届くものではないことを思いつつ、この歌でも、身を折る祈りの形の深いところに、生への否定の匂いを感じたから「屈葬」ということばが選ばれたということはないのだろうか。
異国において、一瞬にして宗教の奥深くにあるものを感知したということはなかったか。