夕闇に消えかかる手はほてりつつ水溜りよりつばめをひろふ

松平修文『水村』(1979年)

 

 

太陽が沈み、まだ月がのぼる前のとき。
「消えかかる手」は、ただその光の具合によるのではないだろう。
消えてゆくように思えるほど、存在がたよりないのだと思う。でも一方で、内から何かが熱い。
「手」はそれこそ、その時間帯のように微妙である。

 

そこに穏やかにつながりながら、しかし下句は読む者を驚かせる。
燕はふつう、水の中から拾い上げるものではない。
水につかって、けばだった羽の感触が、気味悪く重い。

 

まず視覚から、そして内側の感じ、また外部に対する触覚をうたって、複雑に表現されようとするこの「手」。

「手」を通して感じられる、「手」の持ち主の妖しい生命感、それは、うすいようでしぶとい。

 

・水につばき椿にみづのうすあかり死にたくあらばかかるゆふぐれ

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