こんなところに釘が一本打たれいていじればほとりと落ちてしもうた

山崎方代『右左口』(1973)

 

 いろいろな歌があっていい。

 だが、究極的に、短歌が小説とも現代詩とも他のどんな芸術分野とも違う、と主張できるのは、こんな作品を通してなのではないだろうか。

 twitter というメディアの出現が話題になっているけれど、それとも近くて違う。

 もっと無名の、もっと無意味の、小さな小さなつぶやき。

 そこにその人がこの世に少しでも存在したことを証明する言葉がささやかに刻まれる。

 短歌の得意とする分野はこういうところだ。

 

 「こんなところに」という驚き方は、方代のお手の物。淡々と生活しているように見せかけ、そのべたべたな日常の中の些事に驚いてみせる。

 しかし、ある人がわざわざそう言うことによって、そこに詩が立ちあがってくる。

 そのあたり、何に驚くがの選択が、歌のおもしろさの違いなのだ。

 

 ここで方代は、ある物体が無用な姿をさらしていることに衝撃をうけた。そして、子供のようにその物体とコミュニケーションをとりにいった。

 すると、自分の行動によって、その物体はさらに役立たないものになり果ててしまった。

 しかし、それでも、自分という人間がその瞬間に生きていたことを示す、自分だけにしかできなかった一回限りの動きである。

 ユーモラスな物言いの中に悲しみが兆すのは、人間のそうした行動の一回性なのであろう。

 理屈っぽい解釈になった。

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