葛原妙子『原牛』(1959年)
目の前の幹を列をつくって下ってゆく蟻を目にしている。
読点の置かれ方から考えると、「蟻のむれ」がさびしく、また「より」とあるからには、縦列の方が横列よりさびしいということになる。「さびしき」は、両方にかかる。
そしてまた、この読点によって、上句と下句は有機的な感じでつながれ、独特のしらべをもつことになる。と同時に、ここに「、」を打たれると、どうしても「さびしき」は、「蟻のむれ」の方に重みがかかって感じられてくる。
一読、縦列の方が横列よりさびしい、という感受にはっとさせられるのだが、その奥に、「蟻」の、「むれ」の、「下」ることの、「いつしん」であることの、さびしさが置かれている、その重みが一首に与える効果。
縦列の方が横列よりもさびしい、ということを言うための一つの実景の提示という以上のものがここにはある。
縦列、横列というのが、形態であることに対して、こちらは生きものを扱っていることは大きい。
生きもののさびしさを重ねるから、形態のさびしさが深まる。
縦縞模様のシャツは、横縞模様のものより痩せてみえるが、そんなこともこの「さびしき」につながってゆくことを感じる。
縦列が横列よりさびしいとは、人間の無意識の内の感受をぎゅっとつかみだしたような表現だと思ってきたが、そのことを、ああ、わかる、と思わせるための、表現の肉づけの深さ、韻律の独自のありように、また驚くのである。