愛し抜かざりし青春よ山に来て鳥や獣のこゑが悼みくるる

中城ふみ子『乳房喪失』(1954年)

 

 

自分は、愛を貫き通すという愛し方を、その若いころにしなかった。l

 

どこかへ出かけたり、映画をみたり、何かを食べに行ったり。楽しい思い出はあるのだろう。
でも、振り返るとき、それらはみんな淡いものに見える。

「愛し抜」くということは、ひとりの人をまるごと引き受けることだろう。たいへんなことだ。
若いころは、めんどうになると、新鮮で、より楽しい場面を求めたのかもしれない。

 

いま、山にあって、そのように過ぎた時代を思う自分に、野生のものたちの声が響く。
それは死を悲しむような、あわれむ声に聞こえる。

だが、悼むということばの選び方、悼むということのその心の厚さが、過去もそして今をも大きく包むような感じを与える。あったことは、みんなそれでよかった、という声が含まれているような。

 

二句目までの重い、苦みのあるうたい方は、そこにある気持ちがけっして軽いものではないことを示していよう。下句は全体で16音。字余りは、そうした思いをもう一度受け止め直すような、簡単には離さない感じを残す。最後は割合かるく「るる」と切り上げていることも併せて、心情をあらわす韻律の起伏にも目がとまる。

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