棚木恒寿『天の腕』(2006年)
蜂は、陸と水のあいだで死のうとしている。
「死ぬために来し」という断定が目をひく。こうはなから決めつけるところに、「死」が独特の立ち上がり方をし、クローズアップされる。
もがいている。時々、痙攣するような動きも混じる。じっと見る目は、その様子にきれいでないものを感じ取る。
みだりがわしい、は、乱れたさま、取りみだしている、あるいはみだらな様子を言うが、ここはどの言葉でもなく、「みだりがわしき」でなくてはならないのだろう。このもってまわった言葉の感じ(「がわしい」は、……らしいという意味)、音。
そして「わずかに」が重なることで、さらに自分の持つ印象の確定しない感じが伝えられようとする。
たぶん本当のところ、印象は確定しているのだ。だが、確定したくない。
それは蜂の死が、人間の死、ひいては自分の死につながっているからだろう。だから「あわれ」なのだ。
そんな気持ちの揺らぎに合わせるかのように、蜂は水に入ってはまた戻り、濡れながらもがきつづける。
死へのまなざしは、また生の醜へのまなざしでもあるのだろう。