啄める林檎の肉のたっぷりとありてひそけくながれゆく時

角倉羊子『ヴェネチアの海』(2008年)

林檎は、俳句では秋の季語。ほとんど一年中手に入るので、他の果物の少ない寒い季節のものという印象がある。
字面には書かれていないが、啄める、とあるから、餌台の林檎を啄む小鳥の姿が目にうかぶ。鳥の種類にもよるが、たぶん林檎は鳥の体と同じくらいの大きさである。或いは林檎の方が大きいのかも知れない。食べきれないくらいに、たっぷりとある。
果肉、という言い方は普通にするが、肉、という語が、食べる、食べられる、という生命の営みの切実さと、その行為のかすかに享楽的な感じを印象づける。

主人公は幸せそうな餌台の小鳥を、部屋の窓辺からしずかに眺めている。
気持ちのなごむ、愛らしい景色、と素直に読むこともできる。が、林檎が、おそらく主人公によって置かれたものである、ということに、なにがしかの屈託を読み取ることもできる。

連作の隣には「ひよどりが猛りて目白を追い払う餌台に神の林檎のひとつ」という一首が並ぶ。
林檎を置いた主人公の行為は、鳥たちへの純粋な慈しみかも知れないが、自身の気持ちをの慰める意味もあるのではないか。いづれにしても、鳥たちには与り知ることのない、超越者の気まぐれ、ともいえる。

私たちの多くは、諸諸の辛苦を引き受けながらも、なんとか日日の糊口を凌いでいる。食に関していえば、いまだに飽食をほしいままにしている場合も多かろう。
けれど、あらためて考えてみると、働けば食べてゆける、というそのことでさえ、いつ失われるともわからない天与の林檎である、ように思えてくる。名を呼べばこたえてくれる人がそばにいるとしたら、それもまた、天与の林檎であるにちがいない。
作者の意に沿わぬ深読みかも知れないが、そんな思いを向こう側において読むと、一首の小景はより美しくかけがえのないものに感じられるのだ。

「啄める林檎の肉のたっぷりとありてひそけくながれゆく時」への1件のフィードバック

  1. 私の一首を取り上げて下さりありがとうございます。
    魚村さんが深読みかも知れないと仰っている読みが、私の意図とかなり重なっていることに驚いています。歌に隠した意図は、普通なかなか分かってもらえないものとあきらめて世に送っていますので、このように読んで下さる方が居られたことを知り、歌集を出してよかったとしみじみ思いました。

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