乳飲み子の学童の吾子の笑む写真一枚一枚亡き子のやうに

川野里子『太陽の壺』(2002)

 

 作者は母親として息子をもっている。

 筆者は息子として母親をもっている。

 だから泣けるというわけではないかもしれないが、この歌は泣ける。

 いや、そういう境涯を重ねて読むのもあながち間違いではないのだろう。素朴に素直に読むことも大切だと思う。かしこまって読みの視座を設定したりするのはここでは止めにする。

 

 この歌、高校生か大学生くらいになってしまった息子の、かつての写真を見ている。

 乳飲み子のころの、全てが母親に委ねられていた時期、また小学生のころのきらきらと懐いてくれた時期。

 写真は、時間を解凍させるものらしい。

 写真の中の息子を見て、瞬時に思い出がよみがえり、しかしそれは過ぎ去ってしまったものだと瞬時に悟る。

 それは残酷でもある。世の中の裏側をしっかりと抉る作者ならではの視点がある。

 

 もう戻らないという点を「亡き子のやう」である、と飛躍したのがいい。

 人は、一瞬一瞬を生き、同時にその一瞬一瞬を死んでゆくのだろう。

 それが、母親の透きとおった眼には見えすぎてしまったのだ。

 少し怖くて、とても切ない歌だ。

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