寝そべりて恋の歌読む古き代(よ)のたはごとなれば美しき歌

安田純生『蛙声抄』(1986年)

 

 

寝そべっている、この姿勢がいい。
古歌というと、ちょっと構えてしまう人は少なくないと思うが、ここではまったく距離を置かずに、リラックスしきっている。

 

たわごとは、たわけたことば、ということだが、かつて主に題詠で恋の歌をつくったことをいうのだろうと思いつつ、「こんなことがそうそうあるものか、所詮はたわごと、たわごと」と呟くような〈わたし〉の声も混じっていないでもないような気がする。

また、古人がその「たはごと」の言葉にどれほど命を削ったかを思えば、この一語がなかなかに複雑なふくらみを有していることを思う。「たはごと」でない歌(特に今の)にどれほどのものがあるか、という思いも沈んでいよう。

 

また、そんなあれやこれやを離れたところで、たわごとほど美しいというのは、一つの真実である。

 「なれば」は順接だが、「ではあるけれど」、あるいは「であるからこそ」と様々な意味を含んでいるわけだ。

 

二句の終わりでいったん軽く切れて、「―なれば」となだらかに結句「美しき歌」へもってゆく声調も味わいたい。
この歌で、もっとも言いたいと思われる「美しき歌」、それを、一首の流れによって、目立たぬように目立たせている。

読み返してみれば、「寝そべりて」と詠いはじめて、はなから読者を油断させるのも、テクニックならぬテクニックにちがいない。

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