沈黙は金か、金なら根刮(ねこそ)ぎに略奪されしピサロの金か

島田幸典『no news』(2002年)

 

 

沈黙は金、は黙っていることが一番、ということで、日常でもよく使われる。

またピサロは、ペルーを征服したスペイン人で、インカ帝国を滅ぼした人物。

 

うたいはじめで、この上ない価値をもつものとされて登場する「金」は、「金なら―」以降のフレーズで、どういうものとして問い直されようとするのか。
土地の人にわずかな情をかけることもなく、その生活を、さらには人間性をまったく無視して、己のみの利益のために持ち去られた「金」。

 

たぶん、この歌の〈わたし〉は、何事かについて沈黙を守った。あるいは、守ろうとしている。

そのことはどうなのだろう、一般に賢明とさあれるそのことは……。

自分の行動を擁護したい気持ちがありながら、だがその沈黙は、ただの非情なのではないかと問う。
「―か」「―か」のたたみかけが、己を許さずに思いを下ろしてゆく鋭さを感じさせる。

読み方によっては、他者の沈黙を問うているともとれるかもしれないが、自分に向かっての思いとした方が、歌は深みを増す。

抽象概念として登場する「金」が、歴史上の具体である「金」と合わされる妙。
「金」のまばゆい光のなかでの、容赦のない問いかけ、切迫した内省は、読む者をも苦しくさせつつ、しかし、この心のありかたの真率を思うのだ。

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