蝶の翅ならば三日の距離ならむ雨水(うすい)を過ぎて手紙は書けず

山吹明日香『夜音の遠音』(2006年)

雨水は二十四節気のひとつで、立春と啓蟄の間にあたる。雪氷が解けて雨水となる頃、の意という。
旧暦では、ひと月の内の日次は月の満ち欠けによって決まり、その月が何月であるかは太陽年を二十四等分した二十四節気との関係で決まった。雨水を含む月が、旧暦の正月である。今年の雨水は2月18日だった。

徒歩何分、という言い方はよくするし、子供の足で何時間、というような言い方もときにはする。蝶の翅で三日、というのは、しかし作者ならではの距離の捉え方だ。
主人公と相手はそんなに離れたところに住んでいるわけではない。電車や車を使えば、すぐに会いにゆけそうな距離だ。でも、会いにゆけないし、それどころか、手紙も書けずにいる。その距離感の微妙さが、ひらひらと不安定に飛ぶ、そして春の先ぶれのやうな、蝶の一語によってうまく表されている。

手紙を書こう、と思ったのは、まだ寒いころだった。季節は着実に、春へ向かっているのに、主人公はまだその手紙を書くことができずにいる。
恋になるかならないかの微妙な気持ちを伝える手紙だろうか。それとも、すれちがってしまった気持ちをなんとかしようとする手紙か。
電子メールを書きあぐねる、ということも最近はあるが、主人公のせきとめられたような思いには、手紙がいかにもふさわしい。

あのときちゃんと思いを伝えていたら、と後になって思うことがある。もちろん、伝えたところで何もおこらなかったかも知れないのだけれど。
一度しかない、そんなに長くはない人生なのだから、大切な思いは伝えなくてはならない。だけど、大切な思いは、なかなか伝えられないのである。

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