小池光『山鳩集』(2010)
究極の短歌とはなにか。
言葉の意味に邪魔されず、言葉だけを楽しむ芸だろうか。
言葉のリズムや雰囲気が前面に出ていて、意味や内容はそっと後ろに潜んでいるような構図。
そればかりではいけないだろうが、そういう方向の愉楽を作者は熟知している。
では、この歌のおもしろさは何か。
まづは、文語(文語調)であることだろう。
「足のうら(を)わが手のひらで触るとき」と言っても、意味は伝わるが、大時代的な気分は出ない。内容のシンプルさを(どうでもよさ、と言ってよい)があるからこそ、言葉の技が浮き出る。
後半、「旧友交歓」と大きく出る。何も、足を撫でるだけなのに大げさな、と思わせるところのギャップが読みどころなのだ。
旧友と会って喜ぶのは、ただ手が足をさするくらいなんだな、という逆の読みも入ってくる。
「さながら」も芝居がかった言葉である。そして、最後の「あはれ」で駄目を押す。
音読してみれば、上句の柔らかな和語脈が、下句冒頭で「キューユーコーカン」と居住まいを正し、消え入るように「あはれ」と収斂してゆく流れを感じられる。
シンプルな内容と言葉が絡み合うように、しかし、お互いを邪魔しないようにできている。
まさに、短歌という言葉の究極の芸である。