ぴょんぴょんと私が跳べば二人子は真似して跳べりどんな場所でも

前田康子『色水』(2006)

 

 これは、楽しい歌か、悲しい歌か。

 ひたすら楽しい方向に振れたあと、そっと悲しさが残る、というのが短歌という詩のひとつの定番。

 

 母親として子供の前に絶対的な存在としてわが子の前に立ちはだかり、その人生を先導してゆく。

 ありのままの姿をさらし、あふれるいとおしさで子どもを包み込む。現代の童話のように。

 

 母親がピョンピョンと跳びあがると、子供たちが無条件で真似をする。それは母親への信頼という以前の、もっと原始的な母子のつながりのように見える。

 筆者は、そういう母親像をかがやかしく、うらやましく見つめるだけである。

 

 しかし、結句になって「どんな場所でも」が置かれる。

 ここに引っ掛かりを覚える。

 どんな場所でも? 公園や道端ならともかく、例えばスーパーの中や衆人環視の交差点や市役所のロビーとか?

 本当は跳びたくないこともあるのかもしれない。本当は自我が芽生えつつあるのかもしれない。

 しかし、子供たちは無邪気な様子で跳びはねる。

 ああ、母親としてどうしたらいいのだろう。私は正しいのか、という問いもかすかに感じさせる「どんな場所でも」だ。

 いや、そういう悲しさを打ち消すほどの楽しさが「ぴょんぴょん」の響きにはあるようにも聞こえる。

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