母と子が互ひを責めてゐるやうな袋の小茄子触れては鳴りぬ

川野里子『太陽の壺』(2002年)

 

 

袋に入った小茄子。
そのきれいな紫紺が目に浮かぶ。
手に提げているのか、小茄子たちは、触れ合ってきゅっきゅっと鳴るらしい。

茄子の艶ある膚の質感は独特で、触れると、ちょっとひっつくようなところがあって、複数個集まると、このように茄子ならではの音もたてる。

 

掲出歌では、その音を、母と子が責め合うようだと耳にとめるところが目を引く。
ここのところ、買い物帰りを思わせる歌の様子から、まずはちょっとした日常の、子は母に何かをつっかかり、母は子に、こごとを言う、そんな光景を思い浮かべる。

 

でも、しばらくこの歌に立ち止まっていると、母と子って、もしかしたら本質的にその存在のあり方をお互いに責めているものかもしれない、と思う。
それは、近親憎悪のようなものからというより、そこに関わりつつ、さらに深いところにおいて。

生を与えてしまったこと、その結果生まれ出た者に、そして与えられてしまったこと、それを与えた者に、ある責めを問いたくなる気持ち、といったらいいだろうか。
生きること、人生って、どう生きてみてもわからないところがある。そんなところへ一つの命を送り出したこと、出されたことへ抱く思い、といったらいいか。そんなものが母子の底に沈んではいないか。
それは、人間として強く生を肯定する思いの裏に、常に影のように張りついてあるものではないか。

 

夏の風物のなかに、そんな深い淵を垣間見せるようなところが、この歌にはある。

 

・迅速に一人子(ひとりご)は育ち独りなり階段を傘で叩いて昇る

この歌の母の行為もまた、一見おもしろく、そしてかわいくもあるが、なかなかに謎深くもあるのである。

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