日常という重圧につぶされてもう開かざる勝鬨橋(かちどきばし)も

藤原龍一郎『夢みる頃を過ぎても』(1989)

 

 あらゆる種類の固有名詞が登場する藤原龍一郎の歌集。

 その中で、「勝鬨橋」は正統派の重みを持つ方だ。

 勝鬨橋は、東京の隅田川にかかる可動橋(跳開橋)。しかし、1970年以来、開いたことはないという。近くから見ても、こんなものが開くというのが信じられないくらいの重厚な橋。

 

 固有名詞の中の、存在の悲しみに視点を向ける作者である。

 1940年完成という時代背景からの命名、もう(本物は)聞かれなくなった勝鬨(の声)、そして開かない橋そのもの。

 そのすべてに、小池光が藤原短歌の中に指摘する、〈ああ〉が詰まっている。

 

 しかし、この一首は、最後の「も」によってひっくり返される。

 つまり、勝鬨橋の歌だけなく、自分を含めたギョーカイ人や、中年となった男たち(藤原は1952年生まれ)に向けられた歌である。

 日常は重圧であり、その重圧によってもはや開かなくなった部分が自分の中にある。それに対するエールであり、レクイエムでもあるのだ。

 それとはは、青春であり、青春の名残でろうか。心の片隅に、いつか開くことをじっと待ちながら、しかし片や永久に開かないことを知っている気持ち。

 重松清ならここから一話作りだすかもしれない。

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