久我田鶴子『雨の葛籠』(2002年)
こういうことって確かにある。
どうも相手の受け取り方が、こちらの意図したことと違う気がする。そのあたりを修正しようとことばを重ねる。すると、もっと変になっていって、続ければ続けるほどさらに変になるだろうことはわかっているのだが、話が切り上げられない。
日常での、電話の会話の上でのことなのだが、ここにはことばのはらむ本質的なものも含まれているだろう。
一首の中ほどあたり、ひらがなの羅列のなかに、「ゆく」「ゆき」が続き、いかにも曲がりくねった道をすすんでいく感がある。そしてここのところ、たるみ過ぎないよう、うまい具合にカ行音が細かくはさまれている。
四句までをそのようにして、とろとろと続けた末に、「なれど」と逆接で受け、最後は否定形で切る。このあたりは、とろとろ感にコントラストをつけるべく、歯切れよくうたわれる。
こうした技術が歌のおもしろさを支えているのはいうまでもない。
歯医者での場面をうたった、次のような歌もある。
・手荒なることなどしたくなきものをかく言ひ言ひて手荒に踏み切る