さかんなる火事に見ほるるわが顔を夢にみてをり何燃えてゐむ

小谷陽子『ふたごもり』2003年)

 

 

自分は自分の顔を、夢の中で見ている。
それは、火の勢いも盛んな火事をみている顔だという。
火事自体は見ていないのだが、火事が起こっていることは、ここに動かぬこととしてある。
一ヶ所を見ているのだが、周囲の状況は、前提として理解されているという、夢の中の意識。

 

夢に火事を見る、のではなく、火事を見る「わが顔」を見ているのが特異だ。
その顔は、炎の揺らぎによって照り翳りし、また瞳も燃え上がる赤さを映しているかもしれない。

「見ほるる」。その瞳は、我を忘れるまでにほれぼれとしている。
火事は一般的には凶事だが、人間の営為をたちまちにして無としてしまうこの火事というもの、一方に人間の心を高揚させるものがある。破壊願望だけでなく、火によって原初的に何かがかきたてられるのだろう。

 

さて、この「わが顔」を見ている者は、結句で「何燃えてゐむ」と意識を転換する。
ばんやりしているようで、覚醒したこの意識。
他ならぬ自分の顔に浮かんだ、陶然たる様を認識、しかるのち、ところで何が、という意識の振り向け方に目がとまる。

 

夢の中での二重の私、その意識の二重性。

「見ほるる」も「何燃えてゐむ」も、そのどちらもが、地に着かない意識のありようを漂わせ、そのことが一層、意識というものが漠然としながらどこまでも深くありつづける感じを与える。

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