山みれば山海みれば海をのみおもふごとくに君をのみ思ふ

前田夕暮『収穫』(1910年)

 

 

近代の歌を読んでいると、つかまえ方がざっくりと大きく、かつ不思議な説得力をもつ歌に少なからず出会う。

いつ頃からか歌は、細部をしっかり押さえてそこから発展させると、比較的、共感を得やすいものになるようになったようだ。と同時に、冒頭の歌のような、大きなところから真情に迫ろうとするところを失うようになったのではないか。
これは、ひとり短歌にとどまらない、時代背景に関わるもろもろから来ていることと思うが、なればこそ、時には近代特有の大きさを味わいたい。

 

あなたをだけ思う、ということに、山ごと、海ごともってくるスケールが爽快だ。
そして、山を見る時には山のみ、海の時には海のみという、このシンプルな純粋さが、その真実味において、「君」への思いとよく重なる。

 

「―みれば」「―みれば」と続けて順節でつないでいる。
そういう流れで運びつつ、二句目では「山」、と鮮明に句切れをつくり、一方「海」のあとには、「を」をはさんで「のみ」につなげ、「山」のあと、「海」のあとに変化をつけている。結句「君をのみ思ふ」は、「海をのみおもふ」と対句の形をとりつつ、字余りにして、文字通り収まりきらぬ思いを韻律の高まりとともにうたっている。対句の一方の「海をのみおもふ」が、句またがりになっており、そのことが、そうではない結句をいっそう一気に奔らせる。

こういううたい方の力も得て、歌は大きいままに、読者をうまくその気分へ乗せてしまうらしい。
具体的な描写で、一首のどこかをしめなくても、歌は十分にもち、そして、だから、悠揚とある。

 

・君ねむるあはれ女の魂のなげいだされしうつくしさかな

この有名な歌も、現代の人の心を、同質の大きさで、ゆったりと満ち足りたものにさせる。

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