さびしさは父のものなり水底(みなそこ)の泥擦り上げて真鯉浮かび来

渡英子『夜の桃』(2008年)

水の辺に立っていると、濁った水に見え隠れする鯉の姿にしばらく目を奪われることがある。足元の混沌とした世界に、こころひかれてしまうのだ。
真鯉は墨色の鯉。緋色の緋鯉よりも地味だが、どんよりした不気味さを帯びている。

三月三日の桃の節句が過ぎて四月になると、鯉のぼりの季節だ。
いちばん大きく黒い鯉のぼりが真鯉。
童謡『こいのぼり』に「おおきいまごいはおとうさん ちいさいひごいはこどもたち」と歌われているように、真鯉は父の象徴でもあるのか。

この歌のなかの真鯉は、あの鯉のぼりの真鯉のように颯爽とした存在とはすこしちがう。
人間的な苦みや憂いの濃い存在としての父。老いた父。
「水底の泥」にも触れ、「擦り上げて」、ときには泥にまみれて生きている。
それは濁った水のなかのこと、だれにも知られずそうやって黙ってそこに生きるしかない。

あるとき、子はそのことに気づく。
けれどそれに言い及んではいけないと直感する。
父の、父だけの「さびしさ」を、そっと見守るしかない。
そしてまた自分もそのように生きていくという覚悟をしている。

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