田村広志『旅のことぶれ』(1995年)
病体の母を抱いてベッドに下ろしてやる。
その時「かすかに乳の香」がするという。
これは、まぼろしの香りだろうか。
はるか昔、自分が赤子だった頃に自分と母をつないでいた乳。
その甘く豊かな香を、衰えた母に嗅ぐ。
佐野洋子のエッセイに、惚けてしまった母のベッドにもぐり込む話があったが、人にとって、母とはこうしたものなのだ。
佐野の場合は、必ずしも母とうまくいっていなかったと聞くが、たとえそうであっても、である。
つまり、生あるものの根底、心の底をずうっと降りたところでのよりどころなのである。そのことは、強く自分を守ってくれた母に力がなくなったところで変わらない。
〈母〉から来た自分は、〈母〉に帰っていくところを見るのかもしれない。
匂いのみに絞って、掲出歌はそうした思いにしばし浸らせる。
・海溝のしずけき暗さ母を包む集中治療室酸素吸入音
・草食竜のシダ食む音す眠りへとようやく入りし母の寝息は
、「母」は、大自然や遠い時代の生き物につながって詠まれる。