大言壮語美しかりし男らもなし二方より野火は放てど

馬場あき子『ゆふがほの家』(2006年)

 

 

自分の力以上のデッカイことを言う。
それは愚かともいえるが、また、それだけのことばを吐いてみせる気概があるともいえる。
かつてはそんな男たちがいた。
多くできもしなかったそれらのことは、実現しなければなおのこと、ことばだけが大輪の花のように咲き誇る。
そのことばに、多く潰えた夢に、同じ生きる者として、しかし男ではない女から、「美し」ということばを贈る。

 

「なし」の切れ方がまことに鮮やか。
そこまでの運びを見てみると、Taというa音を含む明るい音から始めて、七音の漢語の重さを歌の頭からかけている。そして「かりし」の辺りで音を張り、次の「男らも」で少し調子をゆるめたあと、「なし」と突きつけている。しかも「なし」は、下句最初に置かれているため、いっそう鮮烈に響く。また、歌の最後が言いさしになっていることも、この「なし」を際立てる。

四句目「なし二方より」の内は、句切れとなっており、一息あけたあとそのまま以降へなだれこんでいく調子をみせる。「二方」という、音の上でも見た目においてもすっきりとした感じが、「なし」によく続く。

 

「二方より野火は放てど」にいたると、なんともいえぬ空虚さが伝わってくる。
倭建の命が、野にあって火を放たれ、草薙の剣をふるった場面をはるかによみがえらせつつ、「男」のみならぬ、今の世への失望の深さが伺える。

と同時に、もう少しこの歌から何かを受け取りたい気がする。
「野火」が「大言壮語」と照り合うように輝き、歯切れのいい文語と調和している歌の、美や、凛と通るものに、人をうつむくのみに終わらせないものがないか。まなざしが遠く過去と現在を行き交う、そのしんとしたなかに底から支えるような何かが感じられないか。そうして眺めていると、己の分などわきまえずに、大言壮語の一つも吐いてみよ、という声が聞こえてこないでもない。

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