いきなり父は十露盤(そろばん)を投げつけつ歌などいぢりのぼせてをれば

片山貞美『魚雨(うをあめふる)』

「いきなり」というから、普段は物静かな父なのだろう。その分、沸点に達した父の怒りの激しさ、そして、十露盤を投げつけられた「わたし」の驚きと痛みが、ダイレクトに伝わってくる。十露盤を手元に置いている父は、つまりは商人である。篤実な商売に精を出す父としては、頼みの息子が「何の役にも立たない短歌など」にのめりこんでいることが許せない。普段は見ぬふりをして何も言わずにいたが、自分が帳面をつけているそばで、歌の推敲を続けている息子の姿に、ついに堪忍袋の緒が切れたのだ。

そんな少年時代の思い出を回想した歌。結局作者は、角川の「短歌」編集長を務めるなど、一生を歌とともにすごすことになった。そうして今から思うと、あのときの父の怒りにも、共感できる気がする。だからこそ、この歌を作った。それにしても、「いきなり」という、まさにいきなりの導入や、上句のスピード感ある破調が実に効いている。「いぢり」「のぼせて」といった言葉の選択に、少年時代の自分を冷徹に省みる作者の心がこもっている。修辞と省略に徹底した作歌を重んじた片山の、真骨頂の一首でもあるだろう。

結局、短歌とは、実利のない世界である。だからこそ、価値があるのだが、それはなかなか短歌に興味のない人には分かってもらえない。家族から理解を得られない場合も多い。ただ、歌人自身も、「短歌自体に実利がある」「歌人は社会に有用である」と、思い上がっているふしがないだろうか。

 燃えくづれたる骨およそ納むれば余れる屑は掃きよせて入る

これも、僕の愛唱歌の一つ。火葬が終わって、骨壷に遺骨を納める情景だ。人も歌も、片山にとっては、はかなく意味がないからこそ愛すべきものだった、のではないだろうか。

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