くちびるに迫る夕日のつめたさを海に告げたり海はわらふも

水原紫苑『さくらさねさし』

海で夕日に遇い、「美しい」と感嘆した経験はだれにもあるだろう。でも「美しい」と言葉にした途端になにかが減る気がする。海と夕日が私を包んだ、その一体感こそが感覚の喜びなのだが、「美しい」と言った途端に、一体感がなくなる気がする。だから、美に直面したときは、ただ黙ってその感覚にたゆたっていたい、と思う。いや、逆か。感覚にたゆたっていることそのものが「美」という体験なのか……。

 

というようなことを、この歌を読んで思った。「くちびる」の触覚で夕日を感じとっている。しかも、「迫る」だから、圧倒されそうなことがわかる。「つめたさ」として感じとられた圧倒的な夕日を前に、「私」は感じとったことを海に告げたのだという。結句「海はわらふも」はどう読むのがいいだろうか。海が「私」を受けとめているともとれるし、謎めいた「わら」ひで「私」との間に一線を画しているともとれる。いずれにせよ、夕日や海と交感する世界に「私」はたゆたっているのだ。官能的である。

 

この歌を口ずさむと、流れるような調べに気づく。ウの音が響いているのだ。初句、第3句、第4句、結句のはじめの音が、「く(ちび)る」「つ(めたさ)」「う(み)」「う(み)」。第2句にも「ゆう(ひ)」がある。さらに、第3句、第4句では、「つ(めたさ)」「告(げたり)」とツの音でリズムを刻む。調べの心地良さも、歌の官能性を高めている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です