谷地に湧くみづが金だらひほどの光りそこに順序に鳥の来たるも

森岡貞香『百乳文』

 

「富士山麓」中の一首。谷地は「やち」。低湿地のことをいう。そこに水が湧いている。「金だらひほどの」という例示がいい。水たまりのだいたいの大きさと、水が金属のたらいのように鈍く光っているさまの両方がよく伝わってくる。統語法が変わっていて、「みづ〈が〉」「光り」だという(「光り」は名詞として読んだ)。「みづ〈は〉金だらひほどの光り」ならばすんなりと読みやすいが、〈が〉にするとややたどたどしく、性急な感じがする。おそらくこれは大切な〈が〉だ。谷地を歩いていき、水を見つける。「あ、水」「あ、光り」という感興が同時に起こり、その驚きを素直に表そうとすると〈が〉になるのではないか。〈は〉だと、すでに構成された場面(絵)を言葉にしているような感じがする。〈が〉にすると、「あ、みづが!」といって水を指差している人の姿まで思われる。どこか生な身体が入ってくるのだ。

 

その水に鳥が来る。「順序に」がまた、面白い。何羽かの鳥がばらばらと水の周りに降り立った、というなんでもない場面だろう。だが作者は、鳥の降り立つにも順序があるという。人間の決める順序ではなく、「そこには鳥なりの順序があろう」という想像のもとに「順序に」と言っているのだ。同じ『百乳文』の前の方「葡萄模様」の中に、

 

  房垂るる葡萄の下に入りたるは鵯どりに或る時間の過ぎむ

 

という歌がある。発想が似ている。葡萄棚の房垂るる葡萄の下に、ふと鵯どりが入った。それは、鵯どりに鵯どりなりのある時間が過ぎたのだろう、という。「或る時間」の中身は明らかにされない(鳥のことだから、明らかにしようもない)。「順序に」にせよ「或る時間の過ぎむ」にせよ、自分とは異なる生きものの秩序やリズムに思いを巡らしており、その好奇心にはそこはかとない温かみがある。

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