「それは何か」ともう食べぬ亡父の声したり巨峰もて闇をよぎりゆくとき

川野里子『王者の道』

「もて」は「持ちて」。巨峰を食べようとして、皿などに載せて運んでいくのだろう。電気を消した夜の台所や、廊下の暗がりを行く。出し抜けに、「それは何か」と亡き父の声が聞こえる。巨峰は闇に溶け込むような色をしているので、歌の場面全体が闇にあり、「それは何か」という声の印象が強くのこる。声を聞いた者は、おどろきとさびしさに思わず立ち尽くしただろう。「亡父」を形容する「もう食べぬ」は、父が死の側にあることを短くも強く示す言葉であり、深いさびしさをにじませる。みずみずしい巨峰を媒介に、生の側の人間と死の側の人間とが向き合う濃密な一瞬。夢のなかでしかかなわないような一瞬がリアリティーをもって再現されている。

 

『王者の道』には、作者が母の「遠距離介護」をする歌がいくつかある。中でも、食べることに関する歌に私は心うたれた。

 
  粥の熱さ孤独の熱さに及ばねば吹き冷ます息にすこし窪めり

  わさび漬け天真にかへる母に買ひ山葵田のやうなさびしさ走る

  コンビニ弁当病む母の眠る辺に食みぬ卵焼きの渦ながく見つめて

  食べこぼす母を見てゐるわれはふとメジロとなりて花食みこぼす

 
母が食べる(粥の歌)、母に食べさせる(わさび漬けの歌)、母のそばで食べる(コンビニ弁当)、食べる母を見つめる(メジロの歌)。「食べること」を通じて、母と「私」が同じ時間を生きている。「食べる」と「生きる」のほぼ同義であることを思った。

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