看板に〈傍観者〉とありときをりは店主が出でて小窓を磨く

長谷川と茂古『幻月』(2010年)

看板に「傍観者」と掲げる店とは、いったい何の店か。喫茶店かバーか。時計屋、眼鏡屋、古物屋。店主の哲学が店に充ち、それが出しゃばるのではなく、街に埋もれることもなく、社会にあって的確な佇まいを保っている小さな店を思い浮かべた。「傍観者」と名のるとは、名のり方こそそっけないが大胆不敵である。それなのに、店主は時折店の小窓を磨くという律儀さも持ち合わせており、そのギャップが面白い。このユーモア、関西風にいうと「けったい」な感じ。私なら「けったいな店やなあ」とはじめは店を遠くから眺めるが、素通りはできそうにない。妙に心ひかれる店である。

歌集の跋で古谷智子氏はこの歌について書いている。
「実景であるともいえるが、自己のありかたを比喩的に溶かし込んだ歌ともいえるだろう」
なるほど、と思った。そう読むと、途端に知性の冴えと強度が前面に出てくる。自分の位置を世界に対する「傍観者」と定めながら、しかし、傍観者の感性である「小窓」を怠らず磨き、常に徹底して洗練された傍観者であろうとすること。それは誠実な努力だ。それがこんなにもさりげなく、ユーモアにくるんで示されていることに感嘆する。

 

    スピードを落とした車の窓が下りコンビニの袋投げし手首よ
    耐へ難きを耐へたる後のトーキョーにミニスカートの乙女ら弾け
    封を切りあたらしき塩詰めてをり ひかる時落つ しろき虚(うろ)降る
    道の上を九の字のごとき枯れ枝が風におされて東へ進む

 

志ある傍観者は、都市の俗をおそれずに詠い(1首目、2首目)、塩を華麗に詠う(3首目)。私は特に4首目の枯れ枝の歌が好きだ。対象との距離を徹底的に守って詠いきるところに、文体の妙なねばりが生まれている。傍観者の真骨頂ではないか。長谷川と茂古さんは、おそらく「ともこ」さん。女性歌人のこういう文体に、私は共感するところ大なり。

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