蒲団より片手を出して苦しみを表現しておれば母に踏まれつ

花山周子『屋上の人屋上の鳥』

 

風邪でもひいたのか。単に夜更かししただけか。なかなか蒲団から起き上がらない娘。その周囲を立ちまわる母。なんとなくこの母、掃除機でも引っ張りながら「ほら、サッサと起きなさい!」と声を挙げているように思うのは、僕だけだろうか。だが、娘は気分がすぐれない(仮病の可能性も!)というジェスチャーを蒲団の中から発信する。声も出せない苦しみを表明しようと、深淵から救いを求めるかのように、床に手を伸ばす。その手を無情にも踏みつける、母の足。

 

この伸ばされた手は要するに、母に甘えたいというシグナルではなかろうか。我儘を聞き届けてほしいという、母へのちょっとした依存。その手を踏んづけてしまう母の足は、これまた娘への気安さ、親密な関係の現れだろう。「そんな病気のふりしてないで、さっさと起きなさい」。もしかしたらこれは、朝の恒例の風景かもしれない。「表現しておれば」という文語調の力を借りた、大仰な言い回しが、「親子の間のお約束事」の滑稽さを印象付ける。そして、その裏側に流れる、かすかな愛情も。

 

  この頃思い出ずるは高校の職業適性検査の結果「運搬業」
  家にいて考えることは引き籠もりの気配を帯びてゆきにけるかも
  利根川はすぐそこなれど越えしこと十度(じゅったび)に及ばず分厚く流る

 

花山周子の歌は、自由な発想を散文的に記した一行の中に、硬い文語調の言葉をごりごりと挿入したような、不思議なアンバランスさがある。その文体からは、一瞬一瞬に出会った光景・感情とがっぷり四つに組んでやるぞ、という骨太な意志が感じられる。そうして、家族という親密な関係の一瞬の姿が、歌に残されてゆくのだ。

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