残党を狩るごとく口腔内のフォワグラ舌で拭ひたりけり

三宅勇介『棟梁』

 

子どもの頃、どこかにお呼ばれした時、初めてフォアグラを食べた。ほんの小さなオードブルだったが、舌の上で蕩ける柔らかさと濃厚な味わい。こんなに美味い物がこの世にあるのかと感動した。大人になって本格的なフォアグラのソテーを食したが、さほど美味いとも思えず、がっかりした。幼児体験の思い出が増幅されすぎたのか。子どもに美食をさせるのは、よくない。

 

とまあそんなことはどうでもよくて、掲出歌はいかにも健啖。「残党を狩るごとく」に、口中を舌で舐めまわし、フォワグラを味わいつくす。下品だ、不作法だ、という声が聞こえてきそうだが、美食の楽しみを目の前にして、そう上品でいる必要もあるまい。「お食事」ではなく、大いに食らいつくせばいい。

 

二、三句目の「かるごとく・こう」「こうないの」の句割れ、句跨りがこの歌のフォワグラならぬ肝だろう。「こう・こうないの」という一瞬緩んだリズムの中には、まさに口腔を舌が滑り、全てを飲みくだす時の呼吸の溜めがある。そこに続く「フォワグラ」も、まとわりつくような語感が、味覚の余韻を示す比喩のように効いている。結句の「たりけり」も唾に鳴る舌を思わせないだろうか。

 

  アラスカの中華料理の皿の上餃子もやはり厚着をしたり
  大いなる鰯の丸干し煙吐き妻よりわれを隠したりけり

 

美食の楽しみを謳歌する、ガストロノミー短歌。ひたすら食らう姿の奥に、人が生きることのおかしみもまた、美味しく煮込まれてゆく。

 

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