思ひ屈してゐたるわが身は立ち上り食ととのへむ籠さげて出づ

森山晴美『わが毒』

 

何に思いを屈していたのかは、言わない。ともかく何かに苦悩し、屈みこんでいた作者。しかし、きっぱりと思いを断ち切り、すっと立ちあがる。この上句の主語を「われ」ではなく「わが身」とした点に、自己を徹底して客観視する作者の姿勢が感じられる。「思ひ屈して」いるのはあくまでも「身」であって、心ではない。そして、その思いを置き去りにして、「身」は立ちあがる。

 

それにしても、「食ととのへむ籠」という表現には驚かされた。食事を整えるための籠、つまりこれは、食品を買う時に使う買い物カゴだ。だいたいそういう買い物は夕食の準備前に済ませることが多いだろうから、この一首も、やや陽の傾きかけたころの歌だろうか。「食ととのへむ籠」という言葉が、単なる食事の準備を、格式ある典礼のようにも錯覚させる。しっかり立ち上る身体にふさわしい籠であり、さらには「思ひ」まできっちり整えるかのようだ。こうして誰もが、日々屈する思いの中から、日々の食、そして日々の生に向かって、籠を提げて歩み出る。

 

  おびただしき春の泥かも階段の高みに至りやうやう減りて
  敷き石の模様やさしと踏みゆくに雨に打たれて微かなる反吐(へど)

 

靴底についた泥は、階段を何段も昇ってようやく落ち、足跡も薄くなる。厳格な観察の中から抒情を見出す歌々は、確固たる自我を築きゆく生き方を反映したものだろう。『わが毒』が出たのが昭和47年だが、上の二首目などは思わず、約40年後の「雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁」(斉藤斎藤)などと比較してみたくなる。

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