黒瀬 珂瀾


ほらあれさ何て言ふのか晴朗なあれだよパイナップルの彼方の

荻原裕幸『世紀末くん!』

 

ほらさー、あれ、よく言うじゃん、そのー、なんつーか、こんな感じでさー。と、人間が無自覚に発する言葉のうち、明確な意味のない言葉の割合は、意外と多いんじゃないか。言文一致体などとは言うが、記録されることを意識していない発話をそのまま文字に翻刻しても、読めたものではないだろう。意識している座談会だって、後で盛大に赤を入れるのだし。

 

「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」(正岡子規)などのレアケースを除いて、人間の発話を完全に生で定型詩化することは、難しい。掲出歌も生な発話ではない。無意識的な緩みを読みとるより、むしろ、言葉を軽やかにシェイプアップする鮮やかな定型精神を楽しむべきだ。なぜならこの歌、「パイナップルの彼方の」にも目を奪われるが、それよりもっと謎めいた、「晴朗」というひと言をぽつりと置いてみる、意識的ないたずら心に満ちているからだ。

よくよく考えれば「晴朗」なんて語、まず会話では使わない。思い浮かぶのは、日本海海戦前に秋山真之が打電させたという「本日天気晴朗ナレド波高シ」。だからこそ下句に登場する、海彼の国の果物パイナップルが縁語として生き、無意味な発話が遥か彼方へまっすぐ進んでゆく感覚が際立つ。

 

「パイナップルの彼方の」は、どこからきた言葉だろう。かまやつひろしのアルバムに『パイナップルの彼方ヘ』(1979)がある。山本文緒の小説『パイナップルの彼方』(1992)もあり、富田靖子主演でドラマ化されている。それに類するものが発想の根底にあったかもしれない。日常に無意味に転がるそんな言葉、無意味な発話を、定型の中に注ぎ入れる。すると一瞬、普段の言葉が、限りなく遠いものとして目に映ったりはしないだろうか。あの「晴朗なあれ」のように。