春の海。誰も見てないテレビから切れ切れに笑い声は響けり

松村正直『駅へ』(2001年)

あらゆるものが省略されている。
この空虚な空間を眺めている視線さえ消されたような歌である。
実際には、誰かを想い、さびしんだり喜んだりしているのかもしれない。
が、この歌のなかでは、誰も見ていない、なにも云っていない、なにも感じていないのだ。
そしてただひとつ、音だけが鮮明である。

初句の句点。
息が一度ここで切れ、長い沈黙と、喪失を感じさせる。
また、「春の海」といえば蕪村の「春の海終日のたりのたり哉」との印象の重複を、この句点によってぬぐいとり、目のまえの海だけをすうっと立ち上がらせる。

さて、この「春の海」は、荒れた海のようにおもう。なぜだろう。
それは、「春の海。」というきっぱりとした調べからも感じられる。
加えて下の句の「切れ切れに」テレビの声が聞こえるという表現からも、テレビの音がかきけされる海の音、というものが想起される。

テレビをつけたまま、海を見に立つ。
波音がにわかに体にせまってくる。
海に五感を預けていると、現実の生活のこまごました雑念が、自分とは無関係の遠い絵空事のようにおもえて胸が軽くなる。
テレビが響かせている笑い声はどこまでも嘘っぽく、それとは反比例して自分と海の存在が大きくなっていく。

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