胸の傷かくして立てばさびさびと砂地に雨の降りたまりゐる

田中教子『乳房雲』

 

「砂地に雨」とあるから、屋外であることは明らか。だから、主人公は服を着ているわけで、胸に傷があったとしても、すぐには人の目に触れはしない。それでも、思わず胸を手で覆ってしまう自分がいるのだという。

 

掲出歌において《立つ》という動作は、己を人に見られる場所に置くことを指すのだろう。人前に出るときに、自分の胸に手をあててしまう。そんな自分の心に気付いた時、砂地に溜まってゆく雨水に気付く。土よりも水捌けがいいはずの砂地に溜まってしまう水。それほどにこの砂地は水を含み、水を流し通さない。怖れに固まってしまった己の心のように。

 

  standing up
  covering the wound on my chest
  I’m as desolate
  as rain that falls
  to pool on sandy ground

 

この歌集には、アメリア・フィールデンと小城小枝子による英訳が付されている。英訳では「さびさび」について、”I”が”desolate(わびしい)”のだと、直接的に表現している。その点、主語と感情語を直接には結びつけない日本語の短歌表現は、特徴的だなあと思う。「さびさび」と降りたまる雨を見つめ、さらには自分を見つめる作者の姿が、そこにはある。

 

この胸の傷とは何か。物理的な傷と読もうとも、心理的な傷と読もうともかまわない。だが、歌集一巻を通じての作者情報を踏まえるなら、乳房を切除した傷と読める。以下のような歌がある。

 

  乳垂れの銀杏の下をゆく夕べ我に欠けたる乳房を思ふ

  in the evening
  walking beneath the gingko trees’
  dangling bark,
  I think of the breast
  I no longer have

 

樹齢百年を越えたイチョウの樹は、樹皮が滴のように垂れ下がっていることがある。気根か何かの一種らしいが、これを「垂れ乳、乳垂れ」と呼ぶ。感情をストレートに述べただけの歌だが、その分、思いの力強さが読者の心の奥にまで響くように思う。

 

  『動物のおっぱい』といふ児童書にヒトの乳房も描かれてゐる

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