風ゆきつもどりつ幌を鳴らすたび四月闌けゆく三月書房

佐藤弓生『薄い街』(2010年)

うらうらと陽が当たり、春も深まってゆく四月、風が吹いて三月書房という書店の幌を鳴らすという。「風ゆきつもどりつ」は、ばさっと幌に吹きつけて去る風だ。春の陽気と時折ふく風の中の「三月書房」は、大型書店とは異なり、季節や天気が肌で感じられる小さな町中の書店を思わせる。

 

この三月書房は、京都市中京区、寺町通二条にある三月書房だろう、と読んだ。関西在住の短歌好きな人には有名な店で、普通の書店では手に入りにくい歌集も、天井まで届く棚にびっしりとそろえる。当の三月書房のホームページによれば、同名他社として、東京・神田の出版社と福岡市にある古書店があるという。他社の店構えを知らないが、京都の三月書房には確かに「幌」がある。5、6歩ほどで歩みきれるほどの間口に、緑色の幌がかかっている。

 

『薄い街』冒頭のエッセイで佐藤弓生は、昭和初期の詩人、左川ちかの詩を引用し、その作品では「緑色」が「生命の暴力の象徴」として用いられ、おそれの対象となっていることを読みとる。その左川ちかの「目を借りて」歌おうといい、『薄い街』を始める。掲出歌は、歌集の終わりから2つ目に位置するのだが、このような意図で始まった歌集をしめくくる歌として、京都の「三月書房」の「緑色」の幌はたいへん似つかわしい。1首だけで読めば、春うららかな町の一風景なのだが、歌集の意図を踏まえれば、緑色の幌をかかげる書店を含む春の街の風景が、不意に不穏なものとなる。生命力がみなぎっていく四月を疎む心が垣間見える。また、「四月」とのずれを強調するかのようにおかれる「三月書房」は、闌けゆく生の外の時間(死、歴史、生ののちの時間などいろいろないい方ができるだろう)の暗喩ともとれる。確かに書店は、すでにこの世にいない人の、あるいは将来的に必ずいなくなる人の遺物、つまり書物、の集まる場所だ。

 

  かんぺきな客体となるまでの日を鏡の前に眉引きながら
  自転車のバックミラーにくる朝は蜘蛛の屍ひとつ棲まわせたまま

 

歌集中、このような歌も印象的だ。生の反対側をひたと見つめる1冊である。

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