松野志保『Too Young To Die』
塩素の匂うプールというと、学校のプールを思い出す。あのツンとした匂いは、思春期の少年少女にふさわしい。プールに泳ぐ彼らはまるで、「少年少女は潔癖であれ」と考える大人たちにより、消毒されているかのようだ。もしくは、殺菌の水に、自ら浸りたくてたまらない少年少女もいるだろう。思春期とはそんなものかもしれない。
掲出歌は授業中ではなく、夜のプール。もちろん誰もいない。でも、ひとりかふたり、フェンスを乗り越え、夜のプールサイドに忍び込んでいるかもしれない。夜のプールは彼らの前で黒々と水をたたえ、闇には塩素の匂いが立ち上る。この水に浸れば体は消毒されるだろうか。でも、皮膚の下までには塩素は沁み渡らないだろう。浄化の匂いに包まれつつ、それが届かずに腐ってゆく部分が自分の中にあると、彼らは思う。魂だという。
わざわざ「囊」という字を用いているが、本義は「ふくろ」だから、袋に覆い包まれ、外部から護られるイメージだろう。塩素の匂いに包まれ、隠される少年少女はまるで、大人の社会から《消毒の香り》という繭の中に逃げ込んでいるようだ。繭はすなわち、「少年少女であること」に他ならず、それは、魂の腐敗という代償を伴う。
破船抱く湾のしずけさ心臓のほかに差し出すなにものもなく
壊すだろう 蛹が蝶になるまでの時間をともに過ごしたのちに
腐りゆく魂、差し出される心臓、壊される幼蝶。本当の社会に触れ、本当の滅びを見る前に、自らの中の幻の滅びに身を委ねる。幻の滅びは、甘美だ。それを、甘ったれた弱さと、貴方は見るだろうか。だが、歌とは、幻の滅びを、一瞬という永遠に留めるものでもあったはずだ。