右脇よりドレインに抜ける濁り水わが胸に棲む夕やけの色

一ノ関忠人『帰路』

 

ドレイン、つまりカテーテルが右脇より伸びている。胸水を抜くためだろう。作者はそれを病臥しながら見つめている。変化の無い病室での生活で、少しずつ水が動くのをじっと見つめているのだ。ドレインに抜けてゆく水は「夕やけの色」に濁っているという。どんな色だろうか、夕焼けなのだから、赤いのだろうか、血が混じっているのかもしれない。

 

作者には、自分の胸中に広がる夕焼けを零れてきた水に思えたのだろう。病に苦しむ中でも、自分の身体に美しい幻想を見いだし、それを楽しむ心かもしれない。しかしその裏には、夕焼けが一日の終わりを告げるように、自分の身体に訪れるたそがれを思う心があるのではないか。どちらにしろ、病臥する日々に、己の身体を見つめ、歌を紡ぐ心に、はっとさせられる。

 

歌集の後書きによると、一ノ関は悪性リンパ腫により一年半もの間、病臥したという。胸に広がる「夕やけの色」を思った時、その色には、独り病臥するさみしさ、やりきれなさ、そして、そう感じてしまう己への内省があっただろう。だからこそ一ノ関は「棲む」という表現を用いた。つまり、この悲しげな〈病の夕やけ〉も自らの中に棲まわせて、ともに生きんとする思いだろう。

 

  右足首にテープ一枚の識別表此ノ生ノ帰路茫然として

 

「此生歸路愈茫然 無數青山水拍天」。かつて北宋の蘇軾はこう歌った。作者にとって病臥は、この生が既に往路ではなく、帰路であることを深く思う契機となったのか。その路を歩むはずの足は寝台にあり、識別表を巻かれる。いよいよ茫然たる中にあって、歌が生に寄り添ってゆく。

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