海嘯ののちのみぎはは海の香のあたらしくして人のなきがら

高木佳子「見よ」(「壜#02」)

 

海嘯には海鳴りの意味もあるが、潮波が河をさかのぼる現象も指す。押し寄せた海水が河をさかのぼり、大地を洗い流した。水が引いた後、水際には新しい海の香りが残された。この水際は河岸かもしれないし、海の浜辺かもしれない。そして、海の香り漂うなかに、人のなきがらも残されている。言うまでもなく、3月11日の東日本大震災の津波の歌だ。

 

「壜」は、いわき市在住の高木佳子による個人誌。2号発刊の目前で震災が発生し、発刊中止を考えたが、「震災から、歌もまた復興させなければ、歌を詠って立ち上がらなければ」との決意で、発刊に踏み切ったと言う。このメッセージは震災後の作品「見よ」7首とともに、別刷りとして添えられている。引用歌はすべて、その一連から。

 

この凄惨な光景を歌材とすることに、眉をひそめる人もいるかもしれない。このような悲劇、現実の死をことさら詠うことに正当性があるのか、という批判もあるかもしれない。だがおそらく作者にとっては、「歌うこと」それ自体が、この歌を世に送る根拠なのだろう。死者を目の前にしても潮の香りの新しさに心を動かしてしまう自分がいる。その自分を見つめることでしか、なぜ目の前の人は死に、私は生きているのかを、自問することはできない。たしかに、美的、詩的に修辞を整えることで、現実の悲惨さ、混乱が、歌からそぎ落とされるのかもしれない。だが、こうして言葉を清めてこそ、自らの心の奥を問いかけることができる。その時、初めて、死者へと捧げる祈りを歌に出来るのだと思う。

 

  わたくしの右のてのひら撫でながら生きてくださいといふ人のゐる
  うろくづはまなこ見開きいつの日かわれらが立ちて歩むまでを 見よ

 

被災者として思いを互いに託し合う姿。地上に取り残された魚たち。「見よ」という呼びかけは、読者や自分自身といった人間だけに向けたものではない。この震災を引き起こした大自然に対し、「われらが立ちて歩むまでを 見よ」という思いを、突きつけている。

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